ギャルの遠吠え

脈絡ゼロ!

3000万のガチャ

3000万。一般的には子供1人育て上げるには3000万かかると言われている。どこで育てるか、どのレベルの教育水準にするかでかなり前後すると思うけれど、よく聞くのは3000万である。昨今の物価高騰でもう少し値上げしているかもしれない。

 

今から書く内容は子育て中の人、子供好きな人には向いていないかもしれないので、一旦ここでさよならしても良いです。

 

「子供1人につき3000万」これを聞く度にいつも思う。なぜ人はそんな高額なガチャを回せるのだろう。

とてつもなく言い方が悪く、道徳的にも人が生まれることを「ガチャ」呼ばわりするのは品が良いとは言えない。でも子どもであるという点のみが保証されていて、性別、容姿、頭の出来、その他諸々は出てきてみないとわからないという点で私から見ればガチャである。

 

私は性善説を認めていない。生まれつき頭が悪かったり、運動神経が悪かったりするのに、なぜ心だけはみんな綺麗で生まれてくると思っているのだろう。生まれつき心が汚い人間だって、絶対にいるはず。

あれだけいじめという名の犯罪が頻発しているのに、なぜ自分の子は絶対にいじめる側にもいじめられる側にもならないと思えるのだろう。

正直なところ、私はデザイナーベビーでないと育てられる気がしない。デザイナーベビー、つまり遺伝子操作によって優秀にされた子供である。「勝ち組」の子供しか欲しくない。きっとこれは優生思想で、声を高らかにして言うことではない。だからごくごく限られた人しか読まないであろうここに書くことが限界だ。

容姿が端麗でない人、頭が悪い人、そういう人たちも当然私と同じ人権を持っていることは理解しているし、決してそれを否定しているのではない。ただ自分はそうなりたくないし、自分が作り出した子供がそんな人種だったら嫌なのである。せっかく自分の人生を賭けて育てるのだから、運ゲーは嫌だ。

 

お受験に必死な親を世の中は白い目で見る。でも私は必死にならない人の方が聖人だと思う。自分の子供がどうなろうと、どんな形であろうと良いと考えられる人だから。まあ、別に学力は必要ないと思っている親である可能性も否定できないけれど。

 

自分の人生の大部分を捧げ育て上げた子供が、醤油差しを舐めて炎上したらどうするのか。別に醤油差しをぺろぺろしなくても、キャバクラの痛客や、ゴミ屋敷おばさんになったらどうするのか。自分の人生を否定されたような気になるのではないかと勘ぐってしまう。

子供が負け組なだけなら良いとしても、あまりにも出来が悪い子供を持つと親の方まで「負け組の子供を生み出した負け組」というレッテルを貼られてしまう。

 

そもそも、ギャンブルをすることは世の中の風潮的に褒められたものではない。パチンコ、競馬、競艇…だいたい手を出してはいけないと言われることが多い。

なのに人は3000万のガチャを回すことを良しとする。パチンコで飛んでいくよりも遥かに多額で、生まれてしまえばお金以外の気力や精神力、時間までも取られてしまうし、途中抜けできない運ゲーに参加させられる。これが矛盾だと私は感じる。

 

ペットをお迎えする時は「最期まで面倒を見られるかちゃんと考えて」「責任を持てるの?」と問いかけられる。熟考の必要性が問われる。これはとても当たり前のことで、安易にペットを迎えるべきではないと私も思う。

それなのに、子供となると「産んでしまえばなんとかなる」「あんまり深く考えると産めなくなるよ」という人間がわんさか湧いてくる。これがわからない。

ペットと人間の子供、難易度で言えばどう考えても人間の子供の方が厄介だし、手放すことの容易さも比べられないほどである。

この風潮に対して、私は賛同できない。

 

こんな考えを持っている時点で、私は子育てに向いていない、むしろしてはいけない人間だ。

子供を連れて歩いている人を見ても、「3000万のガチャを回した勇気ある人」というイメージが真っ先に頭の中に現れる。

だからといって子育てしている人に対して負の感情があるわけではない。「産んだら変わるよ」、この一言さえ言ってこなければ私は仲良くしたいと思う。「産んだら変わる」の言葉は、相手がまだ精神的に未熟だからその準備が出来ていないだけだというニュアンスを含んでいる気がする。確かに私は器が狭いから子供を避けているのだけれど、未熟なわけではなく成熟しきった末にたどり着いた答えなのである。それをまだ未熟だからと片付けられると、喧嘩を売られた気になる。

 

出生率が著しく下がっている今、私のように考える人は少なくても確実に存在するはず。この考えを払拭できる、あるいは教育の段階でこんな考えを持った人間を生み出さないようにしないと、このまま出生率は下がり続ける。